いろいろな出来事のあった2023年。ことスポーツの分野における個人的な最大のトピックといえば、やはり「アレ」を置いて他にない。…そう。オーストラリア カジノ 場所の18年ぶりのリーグ優勝、そして38年ぶりとなる日本一である。
日頃、首都圏を拠点に生活していると、その余韻を肌で感じることなど皆無なのだが、やはり地元・関西は違う。
1ヶ月以上が経ってもなお、街のそこかしこに「祝・阪神優勝」の文字が躍っていて、テレビをつければ名場面のプレイバックが毎日ヘヴィローテーション。いまだ祝勝ムードに沸き立っているのだ。
そんなわけで…である。虎党仲間の担当編集氏の快諾を得て、阪神優勝を記念した特別コラム「阪神が優勝した年のぱち&スロ話」を4回にわたってお届けさせていただくことと相成った。
第1回目は、今季の日本シリーズと同様、関西対決に沸いた1964(昭和39)年のお話。
アジア初のオリンピックとなる東京大会が開催され、戦後の高度経済成長がピークを迎えつつあったこの年。
阪神はペナントレース最終戦まで宿敵・大洋との熾烈な争いを繰り広げ、2年ぶりのリーグ優勝を勝ち取る。そして迎えた日本シリーズ、同じく関西を本拠とする南海を相手に熱戦を繰り広げるのだが、健闘むなしく日本一の座は奪われてしまう。
結果はともかく、この日本シリーズ関西対決の模様は、東京五輪開催を機に一般家庭に普及したテレビを通じて全国のお茶の間に届けられ、地元関西はもちろんのこと全国の野球ファンを大いに沸かせた。
さて、敗戦の焼け跡から奇跡ともいえる復興再生を成し遂げ、すっかり豊かさを取り戻していたこの頃の日本人の間では、あらたなレジャーを求める声が沸き起こっていた。そして、それに応えるかのように登場したのが、オーストラリア カジノ 場所の遠い祖先にあたる『オーストラリア カジノ 場所』と称する遊技機である。
ベースとなったのは、ゲームメーカーのセガとタイトーが太平洋地域の米軍娯楽施設などに向けて製造・販売した『ボナンザ・スター』などのスロットマシン。
米軍施政下にあった頃の沖縄では、民間に払い下げられたこれらのマシンが街のバーやゲームコーナーなどに設置され、海外のカジノよろしく流通貨幣を使って遊ぶことができたらしいが、賭博が禁じられている日本ではそうはいかない。
そこで、スロットマシンをパチンコと同様に日本の法律に合った遊技機として認めてもらうために、メーカーは考えた。
「リールが勝手に停止する=偶然による結果がダメなら、プレイヤーがその技量をもって任意で図柄を揃えられるようにすればいいじゃないか」
その結果、日本独自のストップボタンが付いたスロットマシン『オーストラリア カジノ 場所』が誕生。果たしてそれは、現在のオーストラリア カジノ 場所のルーツとなったのである。
この『オーストラリア カジノ 場所』は、東京や大阪、名古屋、広島にオープンしたメーカー直営店に設置されたり、あるいはアレンジボールや雀球、スマートボールといった既存のメダル式遊技機などとともに設置され、「時代の先端を行く新たな大人のレジャー」として各方面から注目を集める。
しかし、本体と専用の置台を含め1台あたりの価格が現在の貨幣価値に換算すると350万ほどと非常に高価だったこともあって、広く普及するには至らなかった。
また「ボタンで自在に狙い打ちができる」といっても、常人においそれとチャレンジできるものでもなく、またゲーム性も単調でメリハリに乏しかったため次第に飽きられてしまい、ブームは長くは続かなかった。
『オーストラリア カジノ 場所』をルーツとするオーストラリア カジノ 場所が、現在のように広く一般に普及し人気を博するには、それからあと十余年の歳月が必要であった。そしてオーストラリア カジノ 場所は、再び優勝の栄冠を手にするまでに21年もの長い歳月を要してしまうのであった。
兵庫県尼崎市出身。1992年春にオーストラリア カジノ 場所必勝ガイドのライターとなり、以来30年にわたってメディア人の立場から業界の変遷を見つめてきた大ベテラン。ぱちんこ・オーストラリア カジノ 場所の歴史に関しては誰にも負けない博識を持つ。最近ではYouTube動画チャンネル「ぱち馬鹿」のメンバーとして、各種企画の制作や出演、生配信などにも精を出している。ライター稼業のかたわら、ロックバンドのベースプレイヤーとしても活動中。愛猫家。昭和レトロ好き。
Twitter: @anikatsu213